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歴代の常任委員長、常任委員など、フーテにゆかりのある方々から想い出をお寄せいただきました。
♪♪ お名前をクリックするとその方の寄稿をご覧になれます。 ♪♪

第1回(1969)中村  裕
(成城大学 '67)
(初代常任委員長)
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第4回(1972)内田 正昭
(中央大学 '70)
(1972年度常任委員長)
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第8回(1976)疋田  清
(慶応大学 '74)
(1976年度常任委員長)
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第11回(1979) 磯田 義弘
(神奈川大学 '77)
(1979年度常任委員長)
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第16回(1984) 和田 英人
(神奈川大学 '82)
(1984年度常任委員長)
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第7-8回(1975-76)五十嵐(萩谷) 由美子
(東京家政大学 '74) 
(1975-76年度常任委員)
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第10回(1978)竹花 宣子
(中央大学 '78)
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第14回(1982)関(安中) 典子
(山脇学園短大 '81)
(1982年度常任委員)
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第8回(1976)岡田 佐江子
(フェリス女学院短大 '75)

♪中村 裕 (初代常任委員長、成城大'67)
 あれから34年ですか?ずいぶん昔に思い切ったことをしたものだと、感慨無量です。
当時、フォークソングブームのなか、大学にはたくさんのサークルがありました。それぞれの大学のクラブ代表者が「オリンピック記念青少年センター」に集い、リーダースキャンプを開催しました。東京の都心でみんなが一同に会し何か大きなイベントをやりたいね、という話題がいつの間にか「日比谷野外音楽堂でフーテナニー」という結論に達しました。
 1960年代に始まった大学紛争が荒れ狂うなか、詳細の打ち合わせは困難を極めました。それでも各校の担当者は打ち合わせ場所を転々としながらも開催の実施にこぎつけたことを今でもはっきり記憶しています。
幸いなことに、音楽を通じたこの企画はイデオロギーの壁を超え賛同者が次々と応援してくれました。開催実施日は5月3日憲法記念日、新緑が目にまぶしい爽やかなこの季節に「シングアウト」という言葉が実に心地よかったものです。
  いまだに若者たちがクラブ活動を継承してくれていることに感謝するとともに、フォークソングという音楽を共有しながら青春をともに生きた人々が再び日比谷野外音楽堂に結集する!なんと素晴らしいことでしょうか。
 フーテナニーの成功を心からお祈りします。そして、皆さんがいつまでも青春そのものであり続けてくださることを・・・。
♪ 内田 正昭(1972年度常任委員長、中央大学 '70)
 関フォー連OBによる野音フーテナニーが実現の運びとなったことを驚きとともに喜んでおります。もう一度野音のステージに立ちたいと思っている方が大勢いるのでしょうね。
 私が関フォー連常任委員長としてフーテナニーを開催してから30年以上もたってしまいました。すっかり記憶の片隅に追いやられた状態です。
 当時(1972年)のチケットを見るとその年が第4回目で11大学が参加、入場料は100円となっています。実はこのチケットはあまり思い出したくないのです。
 正しくは「Hootenanny」を「Hootenany」と「N」がひとつ足りないまま印刷してしまいました。フーテナニーなるマイナーな言葉は辞書にも載っておらず、まあこんなスペルだろうと早トチリしたのが大間違い!!しかしあまりマイナーな単語ゆえに誰も気づかなかったのかあるいは知らぬふりだったのかさしたるクレームもありませんでした。
 当日は快晴でPA機材の搬入が遅れた事以外は何のトラブルもなく無事にフーテナニーを終えることができました。
前述の如く30年も経過してしまいましたが、当時の各大学の関フォー連の委員の方々、協賛をいただいたニッポン放送、YAMAHA、その他関係の方々に感謝する次第です。この場をお借りして改めて御礼申し上げます。
 いやいや少し硬くなりましたが、今回のフーテナニーに参加の皆様、当日はぜひとも楽しいステージを見せてください。
♪疋田  清(1976年度常任委員長、慶応大学'74)
 「フーテナニーは永遠に不滅です!」などと入学した1974年10月に球界を引退した長嶋茂雄氏の引退挨拶を軽い気持ちでパクり、フーテナニーの常任委員長挨拶をさせていただいたのは28年前のことでした。光り輝いていたくだんの長嶋氏が脳梗塞で入院との報道に接し、隔世の感を禁じ得ません。長嶋氏の早期回復を心からお祈り申し上げます。
 さて、フーテナニーといえば忘れられないのは1975年度常任委員の時の最初で最後の雨天途中中断そして中止。そう言えばと思い出される方も多いのでは。当時獨協大学マイスタージンガースの家内曰く、「そうそう。I shall bereleasedを演奏中に雨が降り出して、暑かったから気持ち良かったわ。」とのんきな答え。「思い出とは美しい記憶なり」などと哲学的な再発見。しかるに舞台裏では天を仰ぎ雨が上がるのを祈る者、今ならi-modeで一発確認のところを気象庁に天気予報を5分おきに電話で確認する者、対応方法を喧喧諤諤協議する者と常任委員一同ハラハラ、ドキドキ。
 今思ってもあっぱれだったのは当時常任委員長の独協森川さんでした。難しい判断にもかかわらず中止を英断。そして別の日程でフーテナニー再演となったのでした。考えてみれば一年に2回のフーテナニー、そして雨天前に演奏終了していたために運良く2回も演奏できた参加校もあり、やはり「思い出とは美しい記憶」があてはまるのでしょうか。
 1975-1976年度を思い出すとプロ級のソロとバックバンドが楽しみな独協大学マイスタージンガーズ、いずれも劣らぬトラッドの雄駒澤大学、成城大学、ファルセット・ボイスが魅力の迫力ある明治大学、「おてもやん」が真っ先に思い出される東京家政、華やかで可憐な白百合、フェリス女学院短期大学などなど。各校の個性的な文化と青春のエネルギーが結集し昇華した祭典、それがフーテナニーだったと思います。
 約30年を経て本年フーテナニーが復活することに「フーテナニーは永遠に不滅です」とは「あの時代を生き、今を生きている我々は永遠に不滅です」と密かに思っているのは私だけでしょうか。
 復活フーテナニーでは各校による創造的なチャレンジに期待しています。皆さん、7月10日に日比谷野音でお会いしましょう。一人でも多くの方が参加されますようにお祈りいたします。
 最後になりますが復活フーテナニーの運営に携わっていただく皆様、ありがとうございます。
♪ 磯田 義弘(1979年度常任委員長、神奈川大学 '77)
 第11回目の「HOOTENANNY」…。今思い返すと渋谷の喫茶「田園」の3階、12人の常任委員で日程、テーマ、進行、そして何よりも日比谷の野外音楽堂の日程確保について喧々諤々戦略を練ったことが懐かしく思い出されます。
 特にこの年が節目の開催回数ではなかったのですが、打ち合わせで「思い出に残るフーテにしたいね。」とみんなで話しているなか、第9回のHOOTENANNYの内容を谷村新司さんパーソナリティーの「ライオン・フォークビレッジ」という番組でラジオ放送された話を自分がしました。
 当時の常任委員長・慶応大学の江頭さんと谷村さんとのトーク、また各校のフリータイムの楽曲の模様が放送されたことをみんなに紹介しました。「そんなことできたらいいね」と話していた時に、以前オファーがあったHOOTENANNYレコード化の話を冗談交じりに話しているうちにみんなが盛り上がって結果、各校にもちかえって検討することになりました。
 そうこうしているうちに購入希望者が集まってレコード化が決定。今考えるともっと時間をかけて検討したほうがよかったような気もします。レコード化のために当日開演時間の遅れ、また時間が押してしまったためにハーフタイムの合同曲をやむを得ずに割愛してしまったなどのご迷惑を皆さんに掛けてしまいました。
 でも、いまでもレコードとあのHOOTENANNYのことは、いい思い出となっているのでは?と思っています。今年HOOTENANNY2004が開催されるに当たり、準備委員の皆さんの苦労が大成功につながることを祈っています。
♪ 和田 英人(1984年度常任委員長、神奈川大学 '82)
 80年代中頃の関東フォークミュージック研究会連盟(関フォー連)は、全盛時1,000人を超えていた連盟員数が、バンドブームなどに押されて350人程までに激減してしまった時代でした。
 また、84年には東京家政さんの部員不足による連盟脱退、続いてフェリスさんまでもが、短大の閉鎖という学校側の理由で廃部が決まるなど、明るい話題が少なかったことを覚えています。
 続いていたライブレコードの製作を予算の問題で断念したのもこの年でした。

 毎年2月に行われていたリーダースキャンプでは、部員が少なくなって進入部員の勧誘がままならない学校に対して、人数的に余裕のある学校がお手伝いに出向くことが決まるなど、12校の結束が例年にも増して強まっていったことを思い出します。
 さらに、この年は脱退校に変わる加盟校の選定も平行して行われ、当時女子大としては大所帯を誇っていた清泉女子大学さんや共立女子大さんの加盟が決まった頃でもありました。
 この2校はフーテナニーの最後の年まで関フォー連を支えて下さいました。

 また、84年にはニッポン放送から「フーテナニーをハワイのカウアイ島で行わないか?」「旅費や開催にかかる費用はすべて協賛企業が出します」という夢のような提案がありました。結果的には『野音以外にフーテナニーは考えられない』『1人でも行かれない部員がいる学校はどうしたら良いのか』という問題や『カウアイ島のキャンペーンにフーテナニーが使われることには反対』という学校があったため、最後の最後まで議論を重ねましたが、結果的には常任委員会で「12校揃わなければフーテナニーではない」という苦渋の決断をし、ニッポン放送にお断りに行った日のことを今でも鮮明に覚えています。
 20年前は部員の中にパスポートを持っている人など、ほとんどいない時代でしたから、時期尚早の企画だったのかもしれません。実現できなかったことは、未だにとても残念な思い出です。
 この年から、ちょうど20年を経た「フーテナニー2004」という企画に協力しようと思ったのは、あのときの心残りだった気持ちを何とか取り戻したいという「常任委員の血」が騒いだのかもしれませんね。

♪ 五十嵐(萩谷)由美子(1975-76年度常任委員、東京家政大学 '74)
part1
 1975年1月 渋谷“でんえん”関フォ一連新旧交流会 ここから、常任委員としての一年間が、始まりました。
 まずはじめに、リーダーキャンプ(リーキャン)の運営そして、この年は、関フォー連に新しい仲間を入れようという計画があり、度重なる委員会を開催し、白百合大と山脇短大を加盟し、12大学での活動になりました。候補大学をお茶の水の喫茶店に呼び、意見を聞き、10人の常任委員で採決して決めました。この最終採決日は、家政大の春合宿日で、千葉の内房から、朝一番の電車に乗って、出席した覚えがあります。一日かけて決め、また合宿に。戻った時間は、夜の個人レッスン時で、音が全然取れず、4年生の先輩に叱られたこと憶えています。
 12大学になり、新しいメンバーで、いよいよフーテナニーの準備です。この年は、ひょっこりひょうたん島をかたどったワッペンを胸に12人の常任季員は、7回目にして、今までとは、違うフーテナニーをと意気込みました。
 まず、新加盟の2女子大を第二部で紹介し、そして初めての試みで、後半出場大学は、照明演出を使用。
そして迎えたフーテナニー当日、朝からどんよりの今にも雨が落ちてきそうな空です。
 オープニングが始まり、一部終了の頃には、雨が降り出し、急いでビニールを買いに行き、舞台の両脇のスピーカー・アンプにビニールをかぶせ、そして楽屋に集まり、いつ中止にするか?打ち合わせを、繰り返しました。
 家政大は、エンディング三校前。私は、委員長たちに涙目でもう少し待ってと訴えながら。
 でも、機材のことを考え、第三部 成城・慶應・家政・中央・明治出場できず、中止決定。
 お客様も傘差しながら、見ていてくれましたが、無念!これまで。私は、まだお客様がいるうち、常任委員の胸にすがり、ワンワン泣いたのを憶えています。あのときの委員は、誰だったでしたでしょうか?
 そして、私服に着替えて、機材撤去のお手伝い。マイク・コードを片づけていると、家政大メンバーが、マイクもない舞台にギター1本用意して(部長の野中先輩)『萩谷早くこい!いくよう!』おてもやーんって始まったのです。誰もが、涙流しながら。
 これは、卒業した先輩方が、『今だ!後悔しないよう、歌ってこい!』って背中を押してくれたようです。私たち、きっとメソメソしていたのだと思います。他大学のメンバーは、その舞台を作業しながらも応援してくれていました。終わった後、たくさんの拍手をいただき、これぞ、Sing outと思いました。
 私にとっても、常任委員は、おてもやんのソロをするという伝統を引き継ぐため、必死で頑張り、タンバリンを持っての踊りを一人でこっそり練習し、本番に備えていました。他の常任委員には、今年は、誰が、飛び出すの?と言われても、秘密にし、当日お楽しみにしていました。
 雨の舞台では、みんなにがんばれと言われても、声も出ず、悔しさばかりでしたが、みんなと心を一つにして、歌えた喜びを味わうことができました。
 5月18日は、やりなおしフーテナニーを開催し、おてもやんデビューも果たしました。

part2
 1976年1月ビルゴ‘76の関フォー連新旧交流会に、今年の新常任委員として出席しました。常任委員2年目をスタートいたしました。2年目の慶應の疋田さんを委員長に迎え、私は、金庫番会計として。第8回フーテナニーは、15分開演をのばし、照明演出を最大限に使うことを目標に。この演出は、最高の出来でした。去年に懲りず、また10番目の出演順を確保した家政大。出演時間は、6時半頃。歌っていても、照明受ける自分が、気持ちよかった。
 そして、この年は、OPENING・ENDINGのバックバンドは、各大学から、楽器ごとに集め、セッションで行いました。そして、ニッポン放送との交渉でラジオでオンエアしてもらいました。家政大、おてもやんです。と言った、アナウンサーの不思議そうな声を、まだ億えています。
 この年のフーテナニーのチケット・プログラムは、家政大が、担当し、チケットには、BY NONAKAの文字が・・・パンフには、私の直筆が残っております。(自慢!)でもきつかった。印刷屋さんへの訪問は、手帳に何回も書いてありました。
 当時の手帳に雨天の場合というのがあり、
    9時にひどい雨・・・・・・中止       9時にパラパラ程度・・・・11時まで待つ
    開場前に雨が降ったら・・・中止    開場後に雨が降ったら・・・一部までやりインターバルでけりを付ける
    もし、ある大学が、やっている最中にひどい雨が降ってきたら、中止にするので、その後の大学は、了承しておくこと。 と昨年の反省から、細かく決めてありました。
 照明効果が、よかったことと、インターバルの”およげたいやきくん”が好評だったようです。3年生ということもあり、家政の舞台も、私にとっては、余裕があったように思います。この年は、おてもやん以外のソロをとり、当日声が出ず、リズムが取れず、コーチが、舞台の前で一生懸命リードしてくれるのですが、だめだったこと憶えています。前日の練習で、上出来で、卒業した先輩に絶賛され、ソロがいいなあ なんて、誉められたのに、当日メタメタ。がっかりしました。そして、その曲は、フーテナニーで終わってしまった。
 関西フォー連とのつながりをしようとの試みもありました。実現せずでしたが。

 私にとっての思い出になりましたが、いかがでしょうか?
 2年間の常任委員会、渋谷でんえん。渉外担当は、とってもやりがいのあるものでした。今でも、当時の常任委員会が、よみがえってきます。
 ビルゴにありがとう!
♪ 竹花宣子(中央大学 '78)
 はじめて参加したフーテナニーは新入生の私にとって胸がドクドクして,そこにいるだけでウキウキするような一日でした。誰もが楽しそうで,歌うこと,踊ること,ステージを作ることが大好きだと伝え合っているみたいでした。
 私もその中の一人になりたいと思い,いつのまにか4年が過ぎ,そして,20年が過ぎ,今またフーテナニー2004にみんなと一緒に参加できるなんて夢のようです。あのときの「ドクドク・ウキウキ」が私の中に戻ってきました。
 思えば昨年5月、まさにフーテナニーの季節に20年ぶりにOB会が開かれ、その盛り上がりのまま夢のような「フーテナニーの復活」へと進んでいきました。まさか実現するとは思ってもいなかったので、このような機会を与えてくださった方々に本当に感謝しています。
近頃 娘が某アイドルにキャーキャー言っているのに私はその後ろで踊っている名もない少年達に目がいってしまうのはなぜでしょうか?「そろっているな」とか「笑顔が良いな!」とか・・・・20年経った今もジャニーズJrのように歌いながら踊ろうなんて考えているからでしょうか?白のミニスカート・・・とまでは言いませんが、せめて7月10日は皆さんもあのころにタイムスリップして「フーテナニーの復活」を楽しみましょう。
♪ 関(安中) 典子(1982年度常任委員、山脇学園短大 '81)
 私の中で「フーテナニー」は学生時代のよき思い出の1ページで終わるものと当然思っていました。
 そのフーテが「再び!!」とは実に嬉しい限りです。普通だったら仲間同士の思い出話か、またやれたらいいよねの夢で終わるはずのフーテを実現に向けて一歩踏み出された方たちに今、感服と感謝の思いです。その一歩がなければ、今皆が楽しみにしている7/10という日はありえないわけですから…。
 私は'82の第14回フーテナニー「いつでもシャカリキカリキ」の時の常任委員をさせて頂きました。当時は、今はなき渋谷の「パティオ」という喫茶店でお茶一杯で粘り、数時間ものミーティングを重ねたものでした。(私はただヘラヘラ座っていただけですが f^_^; ) 常任をやらせて頂いてたくさんの思い出があります。
 中でも思い出されるのがフーテが当日、雨で延期になったことです。各大学、日比谷公園に集合したものの、どうか避けたかった「延期」という苦渋の選択を余儀なくされました。待ちに待った日なだけに無念でした。それにも関わらず、噴水の周りには皆が集まり歌って踊って、ある意味それも自然な形でできあがったフーテだったようにも思われます。そして延期された1週間後はピーカンのお天気!大いに盛り上がり、感動の中幕を閉じました。考えようによってはあの雨が連盟員の絆を深め、より一層テンションをあげてくれたのかもしれません。
 当時の常任は、常任委員長だった神大の小野寺さんを筆頭に、実に楽しいしかも心の温かいメンバーばかりでした。そんな仲間と一丸となり、縁の下の力となって一つの大きなイベントを遂行できた感動は今でも私の心の中に健在です。
 今となっては皆社会人となり、学生時代と各々立場が違う中、1日時間を作るというのはたやすいことではないと思います。7/10はとても貴重な1日です。
 あの雨まで「再び!!」とならぬよう、ただひたすら天に向かって祈るばかりです。
 では、皆で一生忘れられない素晴らしい「フーテナニー」にしましょう!
♪ 岡田 佐江子(フェリス女学院短大 '75)
 私達の世代、フェリスフォーク’75は、4月の入学時には2名、ボチボチ5名になり、執行部となった時は3名という、クラブ創設以来、存続の危機と常に隣り合わせの学年でした。バックに最低でも5名は必要という時に、部員総勢3名、コーチが4名という異常事態の船出でした。今にも沈没してしまいそうなFF75号に初めて与えられた試練が、フーテ'76でした。吊り看の横に並んで「およげタイ焼きくん」が吊るされたステージを覚えています。
 世間では、荒井由実が全盛期で、神田川」の世界だったミュージシャンでさえ、テクノバージョンを取り入れている頃、時計の針を逆戻りさせて、電源コードを必要としない楽器ばかりを手にして、日比谷のステージに立つ事は、「ラストサムライ」の様に、バリッと洋服を着た長身のアメリカ人の中に、チョンマゲで小柄な日本人が立っている気分でした。「PPM」だって、3人だったから出来るサ!と前向きに・・・・・すると。同級生からヘルパー1名、入部2名、そして一年生が20数名入部と、クラブらしい所帯になりました。1ヶ月でフーテ出演となりました。
 その時の曲「想い出は涙とともに」が、この度のフーテ’04に選ばれビックリ!下の世代に、「この曲は伝統曲の1つじゃないですか!」と言われ2度ビックリ!!短大では顔すら知らない先輩が、バンドで歌っていた曲を、すぐ上の学年が口ずさんでいたのを聞いて、「いいなぁ」と思い歌ってきた曲でした。
 今度のフーテがなければ、話す機会も知る機会もなかった事です。ただ接着剤的な世代であった私達が、「やってきてヨカッタね」と練習の後、話ながら帰りました。
 今度のフーテナニー開催には、主となり準備された各大学の皆様方に感謝の気持ちで一杯です。あのエネルギッシュな(少しくたびれたかも?)空気の中に自分の身を置ける幸せを感じながら、指折り数えて楽しみにしております。素晴しい時を、ありがとうございます。